東京地方裁判所 昭和59年(ワ)9412号 判決 1986年7月12日
原告
小山信子
右訴訟代理人弁護士
尾崎陞
鍛治利秀
内藤雅義
渡辺春己
清宮国義
被告
国
右代表者法務大臣
鈴木省吾
右指定代理人
星野雅紀
伊東敬一
主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、二〇〇万円及びこれに対する昭和五九年九月八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 主文同旨
2 仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 請求原因
1(一) 原告は、その妹の小山通子(以下「通子」ともいう。)、小山結子及び小山律子が共有する熊本県玉名市中字前七七番二及びこれに隣接する同市中字内田一七三四番三の土地(以下、両地を合わせて「小山所有地」という。)の上に、通子と共同で建物を建築し、同人と同居して玉名薬局を経営し、右建物の原告共有持分を小山律子に移転した後も右建物の管理をゆだねられていたところ、小山所有地の西側に隣接する同市中字前七七番三及び同市中字内田一七三四番四の土地(以下、両地を合わせて「植田所有地」という。)の所有者で、同土地上に建物を所有し自転車店を経営する植田信吉(以下「植田」という。)が右建物の増改築を始めたことから、同人と原告らとの間に紛争が生じた。原告及び小山通子は、昭和五七年八月二七日、植田及び右増改築工事を請負つた木下才四郎を相手方として、熊本地方裁判所玉名支部(以下「玉名支部」という。)に対し、建築工事続行禁止の仮処分を申請(玉名支部昭和五七年(ヨ)第三六号事件、以下、右仮処分申請事件を「本件の仮処分事件」という。)した。
(二) 玉名支部のA裁判官(以下「A裁判官」という。)は、本件の仮処分事件の審理を担当し、昭和五七年一一月一五日、小山所有地及び植田所有地に臨み現場検証(以下「本件検証」という。)を行なつたが、その際、原告が現場指示のため発言したところ、A裁判官は、訴訟関係人のいる面前で、原告に対し、「測量士でもないのに何を言うか、黙れ。お前はバカだ。」などと怒鳴り散らし、更に、訴訟関係人、付近の住民、通行人及び国鉄玉名駅への出入りの乗客など多衆の面前で、原告に対し、「お前は本当にバカだ。」「書類は却下するぞ。」などと怒鳴り散らした。
2(一) A裁判官は、裁判所庁舎で飲酒しながら執務するばかりでなく、連日のように酒気を帯びて登庁し、時には判事室にまで酒を持ち込み事件の処理に当つており、飲酒、特に執務室での飲酒により正常心を失い、事件の適切な審理、判断をする能力を欠いていたもので、本件の仮処分事件についても、次に述べるようにその処理は粗雑を極め、当事者に対する対応、言動も首尾一貫していなかつた。
(二)(1) A裁判官は、昭和五七年一一月一二日、玉名支部裁判官室で、原告に対し、仮処分申請を出し直せば、直ちに保証金五〇万円で仮処分決定を出すと明言した。そこで、原告は、本件の仮処分事件の代理人である田中純忠弁護士に連絡するいとまがないことから、即日、司法書士津崎弥八郎に委嘱して仮処分申請書を作成のうえ提出し(玉名支部昭和五七年(ヨ)第四五号事件)、保証金の準備もすませた。ところが、A裁判官は、翌一三日午後八時ころ、玉名市内の飲食店から自ら原告方に電話をかけ、前言を翻し、「同月一五日現場検証をしたい。」と通知しさらに「俺の言う事を聞かなければ書類を却下するぞ。」と述べたので、原告は、田中弁護士が旅行中であるから同弁護士が帰つて来るまで二、三日待つてほしいと断つた。ところが、A裁判官は、約二〇分後、再び原告方に電話し、「俺の言う事を聞かねば本当に書類を却下するぞ、わかつたか。」と述べたので、原告もやむなく右一五日に本件検証を行なうことを承諾した。
(2) A裁判官は、本件の仮処分事件について、職務上の義務に違反し、審尋期日の指定、鑑定及び検証に関する証拠決定を記録上明らかにせず、審尋調書、検証調書などを記録に編綴しなかつた。
(3) A裁判官は、酒気を帯びて本件検証に臨み、原告に対し、前記1(二)のような発言をした。
3(一) A裁判官の前記1の行為は、原告の名誉を毀損する違法な行為であり、同裁判官は、故意、又は過失により右行為をしたものである。
(二) 憲法三二条に定める裁判を受ける権利とは、正常な心身の状態にあり、適正な審理判断をする能力のある裁判官による公正な裁判を受ける権利を意味するものであるところ、A裁判官の前記2の行為は、原告の裁判を受ける権利を侵害する違法な行為であり、同裁判官は、故意、又は過失により右行為をしたものである。
4 原告は、A裁判官の前記1、2の行為によつて精神的苦痛を被つたもので、右苦痛を金銭により慰謝するには二〇〇万円をもつてするのが相当である。
5 よつて、原告は、被告に対し、国家賠償法一条に基づき、損害賠償として二〇〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である昭和五九年九月八日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
1(一) 請求原因1(一)の事実は認める。
(二) 同1(二)の事実のうち、A裁判官が本件の仮処分事件の審理を担当したこと、昭和五七年一一月一五日に小山所有地及び植田所有地において現場見分が行なわれたこと、A裁判官がその際原告に対し「バカ」という言葉を発したことは認め、その余は否認する。
本件の仮処分事件は、小山所有地と植田所有地との境界争いが原因であり、玉名市が従前土地区画整理事業の際に設置したブロック塀の東側面に沿つた線が境界であることは当事者双方に争いがなく、植田において右ブロック塀に続けて北へ延長して設置したブロック塀部分が小山所有地に侵入しているということが原告の主張するところであり、両者の間の境界に関する争いは長年にわたるものであつた。そこで、A裁判官は、本件の仮処分事件の根本的解決のためには境界を確定したうえ、和解により円満解決を図るのが最良の方法と考え、境界確定のため前記現場見分を実施したものであつて、右現場見分において境界が明らかになりさえすれば、和解が成立する前提が満たされるものであつた。ところが、原告は、右現場見分において、突如、前記争いのなかつた境界線(玉名市の設置したブロック塀の東側面)とは異なる境界を新たに主張し、右争いのない境界線からすれば越境していない位置にある植田が改築のため構築した建物の基礎部分を撤去せよと言い出し、A裁判官は、原告に対し説得を試みたが応じないので、これまでの和解の基本線を反古にしようとする原告の言動にいらだちを覚え、原告に対し、「バカ」という言葉を発するに至つたものである。そして、右発言をなじる原告との間で一、二語やりとりがあつたが、ごく短時間の出来事であり、訴訟関係人が数人居合わせたにすぎない。
2(一) 請求原因2(一)の事実は否認する。A裁判官は、判事室に酒類を持ち込んだり、庁舎で飲酒しながら執務したことはない。同裁判官は、自宅で早朝の三時ないし四時ころに起床して仕事をすることがあり、その際コップ一、二杯の酒を飲むこともあり、そのため登庁時にも酒の臭いが残つていることがあり、前記現場見分の日もそのような状態であつた。しかし、右飲酒が日常の事件処理を粗雑にするような影響を与えた事実はない。
(二)(1) 請求原因2(二)(1)の事実のうち、原告が昭和五七年一一月一二日、玉名支部に対し仮処分申請書を提出した事実は認めるが、その余は否認する。前記現場見分を昭和五七年一一月一五日に実施する旨の通知は、担当書記官が電話で原告に対し行なつたものである。
(2) 請求原因2(二)(2)のうち、A裁判官が職務上の義務に違反したとの主張は争い、その余の事実は認める。本件の仮処分事件の記録中に、鑑定及び検証に関する証拠決定や検証調書が存しないのは、仮処分事件においては、民事訴訟法二六七条一項の解釈上、鑑定や検証はできないとされていることによるものであり、A裁判官は、円滑に和解を行なうために事実上の鑑定及び現場見分を実施したものである。また、審尋調書が存しないのは、A裁判官がその作成の省略を許したからである。
(3) 請求原因2(二)(3)の事実は否認する。A裁判官の発言については前記1(二)のとおりである。
3(一) 同3(一)の主張は争う。
A裁判官の発言が原告の名誉を毀損するものであるか否かは、当該発言部分だけを切離してみるべきでなく、右発言がなされるに至つた経過を全体として観察されるべきである。A裁判官の発言の趣旨は、原告の訴訟上の態度をたしなめるにとどまり、それ以上に原告の社会的地位を軽べつしたものではなく、右発言は事件の経緯を知るごく限られた事件関係者の前で瞬時になされたにすぎないから、原告の社会的地位、評価を侵害したものとはいえないものである。
さらに、A裁判官の発言は、争訴における訴訟指揮の一態様として発せられたものであるところ、このような訴訟指揮を国家賠償法上の違法とされるのは、裁判官が違法、又は不当な目的をもつて行なつたなど裁判官がその付託された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認め得るような特別の事情があることが必要であるが、本件においてはそのような特別事情は存在しない。
(二) 請求原因3(二)の主張は争う。憲法三二条に定める裁判を受ける権利とは、民事においては自ら訴訟を提起することができ、裁判所において法律上の資格を有する裁判官による裁判を受ける権利をその意思に反して奪われることがないことをいうものであるから、本件において原告のこのような権利は侵害されていないものである。
4 請求原因4の事実は争う。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1について
(本件の仮処分事件の審理の経緯)
1 原告が、その妹の通子、小山結子、小山律子が共有する小山所有地の上に、通子と共同で建物を建築し、同人と同居して玉名薬局を経営し、植田が小山所有地の西側に隣接する植田所有地上に建物(以下「植田所有建物」という。)を所有して自転車店を経営している事実は当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すれば、小山所有地及び植田所有地はいずれも、玉名市が土地区画整理事業を施行した際、同市から払下げを受けたもので、原告及び通子は昭和三六年一〇月ころから、植田は同三七年三月ころから、それぞれ同所に居住していること、小山所有地上に現在する建物(以下「小山所有建物」という。)は昭和五〇年に建築された三階建の鉄筋コンクリート造(ただし、登記簿上は四階建)であること、植田所有地上には、当初南側部分に建物があつたが、その後植田は北側に一階建の建物(以下「北側増築建物部分」という。)を増築したこと、植田所有地と小山所有地の境界付近には、玉名市が昭和三〇年ころ土地区画整理事業を施行した際に設置したブロック壁(以下「市ブロック」という。)及び植田が市ブロックに続けて北へ延長して設置したブロック壁(以下「植田ブロック」という。)が存在し、これらの壁は植田所有建物の東側の壁面として利用されていたこと、植田所有建物の南側は二階建であるが、その一階部分は全体が土間で自転車店の作業場及び自転車置場となつており、二階部分は居住の用に供されていたこと、これらの位置関係は、別紙図面に示すとおりであること、以上の事実が認められる。そして、<証拠>を総合すれば、原告と植田との間で、従来から土地の境界をめぐつてしばしば紛争が生じていたところ、植田が昭和五七年八月、北側増築建物部分を二階建に改築しようとしたことから再び紛争が生じ、原告及び通子は、田中純忠弁護士に委任して、同月二七日、植田と右増築工事を請負つた木下才四郎を相手方として、植田の改築建物が境界線からわずか五センチメートル程度しか離さないで建築されようとしていることを理由に玉名支部に対して建築工事続行禁止の仮処分を申請し、A裁判官が右事件の審理を担当したことが認められる(このうち、原告と通子が、植田との間に紛争が生じ、原告と通子が、植田と木下才四郎を相手方として仮処分を申請し、A裁判官が右事件の審理を担当した事実は、当事者間に争いがない。)。
以上の認定に反する証拠はない。
2 <証拠>を総合すれば、次の各事実が認められる。
(一) A裁判官は、昭和五七年八月二七日に原告及び植田を、同月二八日ころは原告を、いずれも口頭で審尋したうえ、さらに、同月三〇日に建本書記官、田中弁護士、原告及び植田立会いのもとに本件仮処分の係争現場である小山所有地及び植田所有地(以下、右両地を「本件係争現場」ともいう。)を見分した。
(二) 原告が本件の仮処分事件の疎明資料として提出した原告作成の報告書には、植田所有建物のうち南側半分は土地区画整備事業施行の際、玉名市の建てた棟割長屋の東端の部分であり、玉名市は小山所有地との境界線一杯に右長屋を建築したこと、その後植田は北側半分の空地に建物を増築したが、その際植田ブロックを右境界線から約五センチメートル入り込んで築造した旨の記載があり、他方、植田が提出した植田作成の陳述書には、境界は植田所有建物の外壁となつている市ブロックの外面(東側)である旨の記載があつた。
(三) A裁判官は、右の審尋及び現場見分の結果や両当事者提出の疎明書類から、市ブロックの東側壁面が小山所有地及び植田所有地の境界であることが当事者間に争いがないものと判断し、植田ブロックが若干小山所有地内に越境しているかも知れないと思い、市ブロックの東側壁面を北方へ延長した線から植田ブロックが越境しているか否かを測量させ、その結果を基礎として和解を勧めようとし、前記現場見分の際に、両当事者から右測量を行なうこと、測量者は裁判所が適任者を選任し、測量費用は債権者と債務者が折半して負担することについて合意を得た。
(四) 田中弁護士は、同月三一日、鑑定事項として、「(両土地間の)境界線として争いないところである市ブロックの東側外壁面を直線で北方に延長した線の位置」、鑑定人の選任については「御庁においてしかるべき鑑定人を選任してください」等と記載した鑑定申立書を玉名支部に提出した。
(五) そこで、A裁判官は、土地家屋調査士の坂本に右測量を依頼することとし、建本書記官を通じて、坂本に対し、その旨の通知をするとともに、昭和五七年九月一日に本件係争現場において測量の内容を指示するから、本件係争現場に出頭されたい旨の連絡をした。
(六) そして、A裁判官は、同年九月一日、本件係争現場へ赴き、建本書記官、原告及び植田の立会の下で、坂本に対し、市ブロックを北方へ延長した線と植田所有建物の北側(すなわち、北側増築建物部分の北側)の壁となつているブロック壁(以下「北側ブロック」という。別紙図面参照。)の北壁面(別紙図面のABの線)との交点の位置を測量するように指示した。その際、原告から、植田ブロックと小山所有建物の西側との間が狭く見通しがきかないがどうするかといつた疑問が出されたが、坂本は見通せなくても機械を使用すれば測量は可能である旨を答えた(証人植田の証言中、この認定に反する部分は採用しない。)。
(七) 坂本は、本件係争現場を測量するにあたつて、市ブロックの東壁面は北方への見通しがきかないので、その西壁面(植田所有建物の内側)を測量し、その結果に市ブロックの厚さ(約一五センチメートル)を加えて右東壁面の線を求めることとし、同月七日、補助者二名をして本件係争現場の測量を実施させ、同月二八日、市ブロック東壁面を北方へ延長した線は、北側ブロックの北壁面の東端(別紙図面のA)から西方へ〇・〇一三メートルの点(別紙図面のA′)で北側ブロックの北壁面と交わつているとする内容の鑑定書を玉名支部に提出した。
3 さらに、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告は、坂本が境界線を見通すことができないのに測量を行なつたこと及び坂本鑑定の結果(以下「坂本鑑定」という。)が必ずしも満足のいくものとはいえなかつたこと(原告は、坂本が鑑定書を玉名支部に提出する前に、同人からその鑑定の内容をある程度聞いていた。)から、坂本鑑定に不満を持ち、昭和五七年九月中旬ころ、土地家屋調査士の津崎に植田ブロックが境界をどのくらい侵害しているのかについて測量を依頼した。
(二) 津崎は、原告から、市ブロックの東壁面が境界であると指示を受けたものの、その実測は不可能であつたので、小山所有地と植田所有地は土地区画整理事業の際に払下げられたものであることから、境界線は本件係争現場の南側の側溝に垂直の線であろうと推定し、その前提に立つて測量を実施して境界線を求め、植田ブロックが境界線から東へ約〇・〇五一センチメートル、北側ブロックの北壁面が同じく東へ約〇・〇六三センチメートル越境しているという測量の結果を記載した測量図(以下「津崎測量図」という。)を作成して原告に交付したので、原告は、同月二七日、これを玉名支部に提出した。
(三) その後、原告及び植田の双方は、同年一〇月に入り、上申書や準備書面を提出したが、原告はこれまでと同じく境界線は市ブロックの東壁面と主張していたのに対し、植田はむしろ市ブロックよりも東側が境界線があるものと思つていたという主張をした。
(四) A裁判官は、坂本鑑定の結果による境界を前提にして和解を勧めようとしていたが、原告からこれと異なる津崎測量図が提出されたので、和解勧告の方法を検討していた。そうして、同年一一月一一日、植田が近く改築工事を再開するとして玉名支部を訪れた原告と面接した際、原告に対し、原告の主張による越境に係る植田ブロックについての建築禁止の仮処分申請をするよう促した。
そこで、原告は、津崎に依頼して仮処分申請書を作成し、翌一二日、玉名支部にこれを提出し、(原告が不動産仮処分申請書を提出した事実は当事者間に争いがない。)。
(五) 一方、A裁判官は、同月一二日及び翌一三日の二日にわたつて植田を玉名支部に呼び出し、同人に対し、境界に争いがある以上、そのまま工事を続けるのであれば仮処分を出さなければならないが、植田ブロックを取り壊すのであれば、建物の建築工事を行なつてよい旨を述べて、植田ブロックを撤去するように説得したところ、ようやく植田もこれに応じて、同月一三日午後、下一、二段程度を残して植田ブロックを撤去した。なお、植田は、この時期までには、A裁判官の説得を受けて新しい建物は境界線から二〇センチメートル離して建築することを承諾していた。また、植田はこれに先立つ同月一三日午前、北側増築建物部分の屋根などを取り壊した。
(六) A裁判官は、坂本鑑定と津崎測量図との食い違いを一本化して境界を求めれば、和解による解決ができるものと考え、そして、植田ブロックが撤去されたことによつて境界付近の見通しもよくなつたことから、本件係争現場を改めて見分し、現場において坂本と津崎の両者をして一緒に測量させ、当事者の納得できる境界線を求めようとして、同月一五日午前一〇時から右現場見分を実施することにし(以下「本件現場見分」という。)、同月一二日か、翌一三日に、その旨を、自らか、又は建本書記官を通じて、原告、植田、坂本及び津崎に通知するとともに、現場見分の実施について了解を得た。
以上の事実を認めることができる。
原告本人は、A裁判官自身が同月一三日ころの午後九時ころ、飲食店から二度にわたつて原告方へ電話し、原告に対し、本件現場見分を実施することを承諾させ、その際、植田をして植田ブロック及び北側ブロックをすべて撤去させて津崎測量図による境界線から二五センチメートル離して新しい建物の基礎を構築させるという原告の要求を容れることを約した旨供述し、甲第九号証の二四にもこれに沿う記載があるが、A裁判官自身が原告方へ電話をしたとの点を除くその余の事実に係る前記供述及び記載は採用しない。
4 次に、本件現場見分の状況について検討する。
<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。
(一) A裁判官は、昭和五七年一一月一五日午前一〇時ころ、建本書記官、坂本、津崎、植田及び原告(以下、これらの人を「立会人」ともいう。)と共に本件係争現場に参集した。
右当時、植田所有地は、南側には従前のとおり建物があつたが、北側増築建物部分に関しては北側ブロックを除いては取り壊されており、植田ブロックが地表に一、二段程度残つているほか、建築予定建物の基礎が植田ブロックの西側に接して三か所、植田所有地の西側の境界線近くに三か所の合計六か所に存在し(別紙図面記載参照。)、また南側の建物の一階部分の土間を通り抜けて北側増築部分の跡地へ出ることができる状態であつた。
(二) A裁判官は、まず、本件係争現場の南側の歩道上において、立会人に対し、坂本鑑定と津崎測量図とは、その結論が異なつているので、本件現場見分において、坂本及び津崎の両名に一致した境界線を測量してもらう旨を述べ、次いで、坂本及び津崎の両名は、異なつた境界線が出た理由について説明を行なつた。
(三) そうして、A裁判官は、植田所有地の北東隅付近へ行き、坂本及び津崎に対し、両者で協議して測量するよう指示した。ところが、原告は、A裁判官に対し、北側ブロックを取り壊さないと境界線の見通しがきかないとして、右ブロックを撤去するよう要求し、A裁判官は、「専門家が測るのだから、素人のあんたが指図することはないだろう。」と述べると、原告は、「誰が考えても直線距離を測るのに障害物があつたら測れないでしよう。」と言つて反論したので、A裁判官も、さらに反論を加えるなどして両者の間で口論となつた。
(四) また原告は、右口論の際、A裁判官に対し、境界線がいまだ決まらないことを理由に、植田の建築工事を直ちに中止することや、植田ブロックの西側に接して存在した前記(一)の建築予定建物の基礎を撤去することを求めたが、A裁判官は、右基礎については境界線よりも西側にあることが明らかであり、建物は境界線からさらに二〇センチメートルの距離を存して建築されるものであるから、問題ではない旨を述べて受け入れなかつた。
(五) 坂本と津崎は、市ブロックの南端から東壁面に沿つて北方へ田植え綱を張つてみたり、北側ブロックの一部に穴を開け、同所から南方へ見通せるようにしたうえ、針金を通したりするなどして境界線の実測を試みたが、市ブロックと小山所有建物の西壁面との間隔が狭く、かつ、その距離が長いことなどもあつて、作業は容易に進まなかつた。
(六) その後、A裁判官と原告は、植田所有地の東側の部分を通つて南側の歩道へ出たが、原告は、なおも植田の構築したブロックと前記(一)の建築予定建物の基礎とを撤去するよう執ように要求し、あるいは、「大体、仮処分せんとが悪かつたもん。」と言い、A裁判官が原告の申請を容れた仮処分決定をいまだ下さないことを非難した。このため、A裁判官は、「仮処分するせんは、私の判断でするから、あんたの指図は受けません。」と言い返したり、あるいは、「黙れ。」「あんたがそんなこというなら却下するぞ。」などと言い、原告も、「どうぞ却下して下さい。却下するならば、すぐに高裁に控訴します。」と応酬し、両者のやりとりは、原告がむしろ言いまくるという観を呈して推移するうち、A裁判官は原告に対し、大声で「バカか。」という言葉を発した(A裁判官が原告に「バカ」という言葉を発した事実は当事者間に争いがない。)。
原告は、これをうけて、A裁判官に対し、「バカですか。裁判官がそんなことおつしやつていいんですか。」などと言つてとがめたうえ、「あつ、Aさん、あんた酒飲んでおりますね。酒飲んでいるからそういう暴言を吐くんですか。それとも酒の飲み方が足らんのですか。」と言い返したが、A裁判官は、これに対して何も言わなかつたので、そのままで両者の言い合いは終つた。
(七) A裁判官及び原告の本件係争現場南側の歩道における右言い合いは、数分で終つたが、立会人と本件係争現場南側の歩道上に来ていた小山通子が、右言い合いを直接見聞していた。しかし、その間他に右歩道上を通行する者は見受けられなかつた。また本件係争現場の南側は、幅員約一二メートルの広い道路をはさんで国鉄玉名駅前広場及びこれに続く駅玄関に面しており、当時同駅には乗客らがおり、駅前広場にはタクシーが駐車していたが、本件係争現場から同駅玄関までは五〇〜六〇メートルの距離が存し、また右駐車中のタクシーの運転手や同駅にいる乗客らが前記のやりとりを特に目撃していたようなことはなかつた。
以上のとおり認めることができる。
(違法行為の成否)
二そこで、A裁判官の本件現場見分における前記発言が、原告主張のようにその名誉を毀損する違法行為であるか否かについて判断する。
まず、右の判断に当つては、A裁判官の「バカか」という発言部分だけを取り上げるのではなく、右発言がなされた際の具体的諸事情を総合考察して判断すべきものである。
そうして、前記一で認定した事実によれば、A裁判官が原告に発した「バカか」という言葉は、原告が自己の一方的立場のみによる主張を固執して裁判官の現場見分の進め方に異を唱え、また原告が求めた仮処分命令をいまだに発しないとしてA裁判官を非難するなどしたため、同裁判官との間で応酬が行なわれ、その一過程において、A裁判官が瞬時に発したものであり、原告を侮辱しようという意図的なものではなかつた、そうして、原告がしたA裁判官に対する要求や非難は、必ずしも当を得たものとはいえず、かつ、原告がむしろ言いまくつていた、またA裁判官の「バカか」という言葉は、かなり大声であつたとはいえ、立会人と小山通子以外には、これを直接見聞した者はなかつた、このようにいうことができる。
ところで、裁判官は常に独立・公正であり、これによつて国民の信頼をかちうるものでなければならない。したがつて、A裁判官が原告に「バカか」という言葉を発したことは、原告の名誉感情を傷つけるものであり、適切を欠くものといわざるを得ないが、しかし、これを右にみられる発言時の諸事情と合わせて考察するときは、同裁判官の右発言行為をもつて、いまだ国家賠償法一条一項にいう違法行為とまで断ずることはできないものというべきである。
三請求原因2について
1 請求原因2のうち、原告が昭和五七年一一月一二日、玉名支部に対し仮処分甲請書を提出した事実は当事者間に争いがない。そして、原告が右仮処分申請を行なつた経緯及び本件現場見分が実施されることとなつた経緯は前記一3(四)から(六)までにおいて認定したとおりである。
原告は、A裁判官が保証金五〇万円で右の仮処分決定を出すと明言したと主張するが、甲第九号証の二四及び原告本人尋問の結果以外には、これを認めるに足りる証拠はない。仮に、A裁判官が右仮処分決定を発令することを示唆した事実があつたとしても、前記一3で認定のとおり右仮処分申請後、植田ブロックは概ね撤去され、しかも本件現場見分を実施することにより、本件係争現場の境界が確定して和解による解決の可能性も十分に考えられる状況となつたのであるから、直ちに仮処分決定を発令しなかつたことをもつて、同裁判官が正常な判断能力を欠いていたものと認めることはできない。
また、前記一3(六)で認定したように、A裁判官自らが原告に対して電話で本件現場見分を実施する旨通知し、原告もこれを承諾した事実が認められるけれども、原告が請求原因2(二)(1)で主張するその余の事実についてはこれを認めるに足りる的確な証拠がない。もつとも、A裁判官が田中弁護士の立会いのないまま本件現場見分を実施したことは前記一4で認定のとおりであるが、原告本人尋問の結果によれば、当時同弁護士は旅行中であつたこと、原告も本件現場見分を承諾したことなどを考えれば、A裁判官が田中弁護士の立会のないまま、本件現場見分を実施したことをもつて同裁判官が本件の仮処分事件を処理するにあたつて正常な判断能力を欠いていたものと認めることは到底できない。
2 A裁判官が本件の仮処分事件について、審尋期日の指定、鑑定及び検証に関する証拠決定、審尋調書、検証調書を記録に編綴しなかつた事実はいずれも当事者間に争いがない。<証拠>によれば、建本書記官が原告及び田中弁護士並びに植田に対し、電話で審尋期日の呼出を行なつたこと、A裁判官は、裁判所書記官に対して、仮処分事件については特に必要と認めたときのみ審尋調書の作成を指示し、通常はその作成の省略を認めており、本件の仮処分事件についても特別に指示をしなかつたことから、審尋調書が作成されなかつたことが認められる。ところで、仮処分事件の審理において当事者を審尋する場合、その呼出は電話等適当と認める方法によつて行えば足り、また民事訴訟法一四九条、一四二条の解釈上、必ずしも審尋調書を作成する必要はないものと解すべきであるところ、<証拠>によれば、原告及び小山通子が提出した本件の仮処分事件の申請書及び疎明資料並びに植田が提出した仮処分申請に対する陳述書によつて、当事者の主張は概ね明確であつたことが認められるから、特に審尋調書を作成する必要はなかつたことを推認することができる。また、<証拠>によれば、坂本に対する本件係争現場の測量の依頼及び本件現場見分は、保全訴訟における疎明方法の制約から、本来の鑑定や検証によらず、事実上の鑑定及び検証として実施されたものであり、そのため証拠決定や鑑定人の宣誓手続はなされず、検証調書も作成されなかつたことが認められる。そしてこのような事実上の鑑定や検証が一律に禁じられているものと解すべき理由はない。
そうすると、これらの事実によつて、A裁判官が飲酒により正常な判断能力を欠いていたものとすることができないことはもとより、同裁判官が職務上の義務に違反したものということもできないことは明らかである。
3 さらに、<証拠>によれば、A裁判官は、本件現場見分の日の払暁に飲酒し、そのために本件現場見分の際、酒のにおいが若干残つていたことが窺われるが、原告以外の立会人はこれに全く気付いていなかつたことが認められる。
A裁判官が酒のにおいが若干とはいえ、まだ残つている状態で本件現場見分に臨んだことは、極めて不謹慎な行為というほかはないが、前記一4で認定したA裁判官の本件現場見分における行動に徴すれば、同裁判官が飲酒のために正常な判断をする能力を欠いていたものとすることはできない。
(裁判を受ける権利の侵害について)
四原告は、憲法三二条に定める裁判を受ける権利とは、正常な心身の状態にあり、適正な審理判断をする能力のある裁判官による裁判を受ける権利を意味し、飲酒のため正常な判断をする能力を欠いていたA裁判官の請求原因2の行為は、原告の裁判を受ける権利を侵害する違法な行為である旨主張する。
しかしながら、憲法三二条にいう裁判を受ける権利とは民事についていえば、何人も自ら裁判所に訴訟を提起することができ、法律で定めた資格と権限を有する裁判官の裁判を受けることができることを意味するものと解すべきである。当裁判所は、これと異なる原告の見解を採用しない。
したがつて、前記三で認定したように、A裁判官が飲酒のため、本件の仮処分事件の審理をする正常な判断能力を欠いていたものと認めることができないことはもとより、仮に、原告主張の請求原因2の事実を認めることができるとしても、それが憲法三二条に定める裁判を受ける権利を侵害する違法な行為であるということはできないから、原告の前記主張は失当である。
五以上のとおりであるから、その余の点を判断するまでもなく原告の本訴請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官菅原晴郎 裁判官加藤正男 裁判官三輪和雄は転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官菅原晴郎)